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 娘をもって娘の日々の生活や成長を見ていると、自分が子供だった頃を思い出したり、自分の幼い頃の想いの記憶を辿ることがよくあるようになった。

 私はこの町に生まれ、この町で育ったので、今の娘とまったく同じ環境のもとで生活し、生きてきた。

 現在娘が通っている保育園は、私の子供の頃にはなかった。いったいあの場所には何があったのかは、思い出せない。しかし、台東図書館は今と同じ場所にあった。夏休みになると今のようにどこの家にもクーラー(エアコン)があるというわけではなかったので、毎日小学校のプールに行った後は親に図書館に行けと言われてよく涼みに行った。台東図書館の子供室は今と同じ地下にあり、まったく同じように真ん中は丸いジュータンになっていて靴を脱いで寝転がって本を読めるようになっていた。

 台東図書館の斜前には小さな産婦人科医院があったように記憶している。いつもそこの前を通ると赤ちゃんの泣き声などが聞こえて、ほのぼのとしていたように思う。

 保育園の近くにある八百屋さんの隣に、おじいさんとおばあさんがやっていた駄菓子屋さんがあった。たまに10円か20円をもってそこの駄菓子屋さんに行ってヒモのついたイチゴのアメやきなこのついたお菓子を買った。

 また、近所には小さなお菓子屋さんが何軒かあった。小学校の遠足の前日には、学校で決められた200円というお小遣いをもらって、遠足にもっていく為の好きなお菓子をそんな小さなお菓子屋さんに買いに行った。小さなお菓子屋さんの中を何度もぐるぐる回って歩いて計算をしながら、その金額で買えるだけのお菓子を選んだものだった。サイコロの形をしたキャラメルは、10円だったのでいつも買った。カールを初めて食べたときは、こんな味は生まれてはじめて味わうがなんておいしいお菓子ができたことだろうと感激したものだった。そんな何軒もあった小さなお菓子屋さんはまったくなくなった。今の子供たちはきっとコンビニに行って遠足のお菓子を買うことだろう。

 小学校の近くには必ず文房具やさんがあった。そこには、学校で使う文房具以外にその時代の流行の物が売られていた。香りのする消しゴムを集めて友達と交換したり、ビーズやリリアンなどが流行ると友達同士で教えあって変わった色や柄のものをたくさん作ったものだ。そんなリリアンの糸も売られていた。リリアンの糸は近くの文房具やだけで買うとクラスの友達と同じ配色になってしまうので、少し遠い文房具屋さんに行くと違った色の糸が売られていて、自分だけの色のリリアンを長く長く作ったものだ。

 今は浅草橋のシモジマに行くと、いろいろなものが売られていて、目移りしてしまうほどだ。先日娘にせがまれて子供粘土を買いに行った。

 今の子供たちの流行は、ポケモン、ピカチュー、ファミコン、たまごっちect.娘たちが大人になった頃に思い出す幼い頃の想い出は、こんなものになることだろう。

 私が小学生の頃に小島町の三味線堀市場の後に13階建てのアパートが建った。当時はそれはそれは高くて大きなビルだった。私の家の物干しからもそのアパートは見えた。そのアパートの11階に同じ小学校のクラスメイトが引っ越した。まったくすごい大金持ちではないとあんなきれいで高い所には住めるわけはないと思った。11階で暮らすなんてまるで天にも昇る感じで雲の上の人になってしまったと思うほど、とにかく高い建物ができてビックリしたものだった。

 現在娘たちはよく保育園で精華公園や小島町公園に遊びに行くようだが、私たちの子供の頃の公園とは遊具がまったく違っている。昔、精華公園には高いお山があった。お山の頂上からは、長いすべり台が2台あって、とても楽しかった。お山に登るには、山の周りをめぐる周歩道を上っていく方法の他に山の斜面に石が所々に飛び出していて、そこに足をかけて上っていくこともできたし、チェーンのロープが上からぶる下がっていて、それを持ちながら上っていくこともできた。このお山は精華公園のシンボルだった。今はこのお山もなくなっている。

 小島町には、お習字の教室があった。蔵前にはそろばん塾があった。近所の子供たちは、必ずと言っていいほど習字やそろばんを習っていた。しかし現在ではその習字教室もそろばん塾もなくなり、今の子供たちは公文塾や英語教室に通っている。

 こんな小さな町だが、30数年前と現在ではいろいろなところが変わってきていることだと感じる。しかし、今でもこの夏に町内でラジオ体操や盆踊りが行われた。お祭りや花火大会も健在だ。参加する子供たちは少なくなってしまったが、私の幼いころと同じように楽しかった思い出を今の時代の子供たちの幼い心の中にもぜひ残してやりたいものだといつも考えている。

1998/10/01 Tama-Chan

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