第9回 浅草で拾ったメディアの紹介 [96/09/30]

【拾った場所】リブロ浅草
【タイトル】「自殺直前日記」 山田花子

またまた、「自殺者の文学」だ。
普通に表現媒体を知覚する(文学ならば読む、音楽ならば聴く、絵画なら観る)時、 ただ何も考えずに知覚するとたいていの場合は「ああ、そうなのね、ふんふん」で 終わってしまうことが多い。そこに例えば作者の生い立ちとか人となりが重なって ゆき、その表現媒体は立体的なふくらみを持ちはじめる。そして殊に、その作者が もうこの世に存在しておらず、その表現媒体がその存在意味を打ち消すなにがしか の過程なり、ヒントなりとなると、文章ならば一文字一文字、曲ならば1フレーズ 1フレーズがいとおしくさえ思えるのである。
前置きが長くなったが、この本にも作者が命を絶つその日の文章があり、決して死 をほのめかす言葉ではないのだけれども、目前の死を前にしてがぜん光彩を放って いるようにみえてしまう。
山田花子はマンガ家で、生前に「ガロ」などで何度か読んだことはあるが、根本敬 やみぎわパンのような画風に(それぞれの画風もすごいけれど)さした印象は覚え なかった。しかし、今となってみて彼女のすべての表現する媒体が、その「死」と いう現実に向かって集約されてゆくような感じさえしてしまう。他愛のない表現で さえ。また後半に彼女の父親の手記も掲載されているのだが、「客観的に自己をみつめる」彼女の表現形態を踏襲するかのように、彼もまた彼女の死を客観的に見つめ、芸術 家(表現者)としての彼女の終焉を泣き叫びもせず(もしかしたら涙も涸れ果てた のかも)認めるかのごとく書いているのだ。まいった。


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